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1998年機械トークに使った資料

私は目に見える世界全体をあたかも1つの機械であり、考えるべきはただその部分の形と運動だけであるかのように述べた。
『哲学原理』デカルト

だが今は開放された彼の目は、こちらがわにとどまり、目に見えるものを見、認識し、この世界に故郷を求めた。本質を求めず、彼岸を目指さなかった。世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった。
『シッタールダ』ヘルマン・ヘッセ

ブランコを引いて、手を放す。そして次第に静止して行く様子を観察する。
『緩やかに移りゆくプロセスとしての音楽』スティーヴ・ライヒ

語りえぬものについては、沈黙せねばならない
『論理哲学論考』ウィトゲンシュタイン

ヴェーダ時代のインドでは、いけにえを捧げる僧はぶらんこに乗り、これを左右にゆり動かして、太陽が天に昇るのを助ける。ぶらんこの往復は天と地とを結びつけると見なされている。これは天と地とのもうひとつのきずなである虹に比せられる。一般にぶらんこは、雨、豊かな稔り、自然の復活といった観念と結びついている。春には、愛の神カーマと羊の群れの保護者クリシュナとをぶらんこで揺さぶる儀式が行われる。宇宙的規模のぶらんこが宇宙をゆすって永遠の往復運動をさせ、生物や天体はこれに従うのである。
『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ

技術者も芸術家もどちらも白紙から始める。どちらも心眼で見たビジョンをその上に移してゆく。芸術家が絵を描くときに行った選択は全くの恣意的なもののように見えるが、洞察と趣意を備えた自分のビジョンを他の人に伝えるという目標によって方向づけられている。
『技術屋の心眼』E・S・ファーガソン

舞踏とは命懸けで突っ立った死体である
土方巽

鳥はいかにして飛ぶのかということを人間が理解するにいたった過程を考えてみなさい。鳥を観察しなければならないのはもちろんだが、主に一定の現象を認識するためで、鳥自体を観察することが目的ではない。鳥の飛行の本当の理解は、鳥ではなく、飛行を理解することである。
『人工知能』シーモア・パパード

現実の無限は3つの文脈について現れる。
まず第1に、もっとも完全な形で、つまりまったく独立した超世俗的な存在−神−において理解されるときには、私はそれを「絶対的無限」あるいは簡単に「絶対」と呼ぶ
第2に、偶発の創造された、世界の中にあらわれるものである。
第3に、精神が無限を、数学的量として抽象的に把握するときには、数あるいは順序型と呼ぶ。
ゲオルグ・カントール

VOCATUS ADQUE NON VOCATUS DEUS ADERIT.
(呼びかけられても呼びかけられなくとも、神は顕視するだろう)
デルポイの神託

科学技術が発達した現代においても「聖なるもの」は消滅してはいない。一般の人々によって科学技術は一種の信仰である。自然環境破壊などによってその信仰は揺らいでいるが、コンピュータはなお信仰の中心にある。
『聖なるヴァーチャルリアリティー』西垣 通

この石(賢者の石)、ないしその原料は、およそ誰も探そうとしなかったところ、道端の「汚物に見つけられる」
『魔術』ルッソ・ミュラー

機械:外力に抵抗し得る物体の結合からなり、一定の相対運動をなし外部から与えられたエネルギを有用の仕事に変形するもの。大別すると原動機構・伝達機構・作業機構の3構を完全に有するもの。
『広辞苑』


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